わたし個人の意見として、いまの文明の大半はいらない文明だと思っています。
科學の發展による人類への恩惠、福音も確かにあるとは思います。そこは否定するつもりはありません。
しかし、それが地球を傷つけていい理由、どうぶつ逹を傷つけていい理由にはなりません。
あくまでも科學が万能だと錯覺してはいけませんし、全生命は自然の法則には逆らえません。
科學の發展はあくまでも、地球や生命あっての發展でなければならない、と思います。
そこを忘れ、人間至上主義=利己主義になり、母なる地球を傷つけ、母なる地球から生まれた同胞であるどうぶつ逹の生命を奪う反自然を續ける限り、人類に未來はありません。
地球やどうぶつ逹が悲鳴をあげればあげるほど、それは必ず人間社会にも反映されます。地球やどうぶつ逹を傷つける行爲は、結局、自分たちの首を絞める結果を招いているのです。
母なる地球は惜しみ無い神意(あい)を我々に与えてくれています。すべての生命の母が地球だからです。
人々は自分自身の魂とも分離していますが、母なる地球の意識からも分離し、地球が一つの生命であるという單純な事實でさえ氣づかなくさせられています。
科學は人々に生活の便利さ、豐かさを与える反面、本当に大切なことを忘れ去っています。それは、地球と共に、他の生命と共存して生きるというシンプルなことです。
神意(あい)とは、大宇宙や大自然、生命のリズムと合わせる生き方のことです。
生命のリズム、大自然のリズムは呼吸と言い換えてもいいでしょう。すべて生命はリズムの中で生きています。
その呼吸が乱れれば苦しくなります。不快、苦しい、悲しいとはリズムが乱れるから起こる現象なのです。
地球や生命を省みない、人工のものは地球や生命のリズムを乱します。それが、我々の社会に病氣となって返ってきています。
科學の發展は、地球や生命と調和した發展でなければ、それはやがて問題として返ってくるからこそ、大半の文明はいらない、と言えるのです。
地球や生命のリズムに合わせる、それを調和と呼びます。それはやがて大宇宙のリズムと一致する生き方に繋がり、靈性の進化に繋がります。
自然界の呼吸を感じるためには、自然に触れることです。大地に触れ、土から生命を感じ、風による草木や花の揺らぎを感じ、生命の慈しみのエネルギーを頂くことです。
それが忙しくて無理な場合、音を通して自然界の呼吸に触れることも一つの手です。
自然界の呼吸、リズムに合わせた音を聴くことは、心身を調律していきます。それも地球と繋がる手段なのです。
神意(あい)のリズムに一致し、魂が喜ぶ生き方を選択していくこと。それは先祖はしていたからこそ、我々にも出來ないことはないと信じています。
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